ええな せかいこくうがみなほとけ 

わしもその中 なむあみだぶつ


妙好人浅原才市の言説です。

 

「念仏は仏の念仏で、仏が申す念仏です。それはただの念仏で、私は用なしです。」

「影を見なさい 光明の光のおかげで 影がみえます。浄土の影がこれでわかります。」

 

「昔はありがたいことを頼りに思い、何ともないことに力を落としていました。今はそんなことがあろうがあるまいが御恩を嬉しく思います。」

 

「ありがたい、ありがたい、ありがたいのがあなたの慈悲で、嬉しくない、嬉しくない、嬉しくないのが私の心です。嬉しかろうが、嬉しくなかろうが、機法一体南無阿弥陀仏このことを知ることができたのがありがたいのです。」

 

「私は浅ましく親(阿弥陀仏)の御恩を喜ぶことができません。喜ぶことができないのなら放っておけばよいのです。凡夫が喜ぶ法ではないのです。」

 

「平生に臨終がすんで、葬式がすんで、そうしたらあとはあなた(阿弥陀仏)を待つばかりです。」

 

「私の心はくるくる回ります。業のくるまに回されます。まわらば、まわれ臨終まで、これから先にくるまはなし。南無阿弥陀仏にとめてもらいます。」

 

「こんな私は、書くことをやめて、書くことをやめられればいいのです。それでも、このような楽しみはやめられません。法を楽しむために書くのです。まことに愉快な楽しみなのです。名号のなせるこの楽しみも、南無阿弥陀仏なのです。」

 

「私の南無阿弥陀仏は、口から出るものですが、並の口称の念仏ではありません。教学の概念を理解したうえの念仏でもありません。それはただ、日々の生活そのものの中で、包まれて生きているという確たる自覚からの南無阿弥陀仏なのです。」

 

「同じ、迷い迷いと言いましても、迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違います。自力他力はここで分ります。他力には自力も他力もありません。一面他力が南無阿弥陀仏なのです。」

 

「名号は不思議な慈悲で 合点がいらないものです。合点がいらないのが南無阿弥陀仏なのです。」

 

「如来さんはどこにいますか。如来さんはここにいます。私の心に満ち満ちて南無阿弥陀仏を申しています。」

 

 

浅原才市(1850年(嘉永3年)220 - 1932年(昭和7年)117日)は、浄土真宗の妙好人のひとりです。石見の才市と呼ばれ、「口あい」といわれる信心を詠んだ多数の詩で知られています。「日本的霊性」の著者鈴木大拙によって世界的に紹介されました。



命式

 

年 庚戌戊 偏印 偏官 冠帯

月 戊寅甲 偏官 食神 

日 壬寅甲    食神 

 

日柱空亡:辰巳

 

 

1850年(嘉永3年)石見国大浜村字小浜(現島根県大田市温泉津町小浜)に浅原要四郎とすぎの子として生まれます。

 

父の要四郎は、涅槃寺(井田村井尻)に役僧として出され、西教と称していましたが、家を継ぐため小浜に帰ってきていました。

 

要四郎は、才市ができてからも涅槃寺の役僧をしていました。才市も涅槃寺門徒でした。

 

1860年(万延元年)、父方の祖母の実家の元道鉄五郎のもとで大工職人の弟子奉公に入ります。

 

1869年(明治2年)、年季奉公を終え、浜田県都野津町( 島根県江津市)周辺に船大工の出稼ぎに出ます。

 

1874年(明治7年)、セツと結婚します。この頃から、九州鞍手郡二本松( 直方市)周辺に船大工の出稼ぎに出ます。

 

1882年(明治15年)、西本願寺で帰敬式を受け、秀素という法名を授かります。

 

1904年(明治37年)、郷里の小浜で下駄職人を始めます。仕事の合い間に「口あい」をかんな屑・木片・紙片などに書き綴り始めます。

 

1913年以降、小学生ノートに書き写すようになり、その数は7000首を越えると言われます。このノートは、信心の間違いがないかを僧侶に見てもらう以外は、他人に見せることはほとんどしませんでした。

 

1919年(大正8年)、熱心な寺参りをほめられ困惑します。

 

「わしが仏さんを拝むのは、この通りまったく鬼だ」と言うことを見てもらおうと、「角のある肖像」を地元の日本画家・若林春暁に描いてもらいます。

 

これが、小浜の安楽寺住職梅田謙敬によって法要の折に披露され、有名になりました。 

それまで、才市は、寺参りと聴聞は熱心でしたが、無口で目立たない老人でした。妙好人と呼ばれる凡夫と自分自身との距離は、それほど遠いものではありません。

浅原才市の思想は、アントニオ猪木の

「 馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ。恥をかけ、とことん恥をかけ。かいてかいて恥かいて、裸になったら見えてくる、本当の自分が見えてくる。本当の自分も笑ってた、それくらい 馬鹿になれ。」

とどこか似ています。