エトワールの哲学カフェ

マルクソーテが1992年に始めた哲学カフェは、今では世界中にあり、熱い議論が繰り広げられています。電脳世界の哲学カフェへぜひ、お立ちよりください。

2016年09月

安岡正篤は次のようにいっています。 

 

よいですか。活力・気迫がなければ、善も悪も、是も非もないのですよ。凡と非凡の分かれる所は能力の問題ではなのです。それは、精神であり感激の問題なのです。

 

一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、地位でも財産でも名誉でもありません。その人の心・精神・言動です。

 

一つの灯火を掲げて一隅を照らす。そうした誠心誠意の歩みを続けていると、いつしか必ず共鳴する人が現れてきます。一灯は二灯となり三灯となり、いつしか万灯となって、国をほのかに照らすようになるのです。

 

愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多いものです。人間は学び続けなければなりません。学ぶことをやめたら、人間でなくなるからです。積み上げて自分の身ほどの書物は、毎年読み続けるくらいの心がけが、人物を磨いていくのです。

 

西洋でも東洋でもそうだが、有為有能な人に共通しておることは、惰眠をせぬことです。大努力を成すには、当然自ら苦しまねばなりません。苦しんで開拓したものでなければ本物ではありません。人並みの努力をしたのでは優れた者にはなれないのです。道に志したなら、衣食がたとえ粗末であっても気にすることはありません。

 

考えてしなければ成功しません。考えてはじめて成すことができるのです。人間の脳というものは、いくら使ってもくたびれないばかりでなく、難しいことに使えば使うほど機能が優れてきます。つまらないことに使っておると退化するものです。何にしびれるかによって、その人は決まります。人間は本物にしびれなければなりません。

 

できるだけ早くから、良き師、良き友を持ち、良き書を読み、ひそかに自ら省み、自ら修めることです。人生は心がけと努力次第です。優れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければなりません。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければなりません。

 

まず根本的に自己を徹見することが大切です。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、 基本問題だからです。

 

いかに貴い職業でも、人によって賤しくなります。たとえ賤しい仕事でも、人によっていくらでも貴くすることができます。

 

自己の内面に満足なものを持たない者ほど外物に憧れます。

 

 

生活が自堕落になったとき、心から馬鹿と叱ってくれる畏敬する人を持つ者は幸いです。

 

憂えなければ人物ができせん。何の心配もなく平々凡々幸福に暮らしたのでは、優という文字の真義からくる優秀とは言い難いものです。憂患を体験し、悩み抜いてきて初めて、人物も余裕も出てくるものです。

 

栄えようと思ったならば、まず何よりも根に返らなければいけません。草木でも、本当に健やかに繁茂させようと思ったならば、いたずらに枝葉を伸ばしては駄目で、幹をたくましくし、根を深く養わなければなりません。根に返ることが大事なのです。

 

行き詰ってしまって、勢もすぼまり、意気上がらぬ、どうにもこうにもぺしゃんこになってしまった人間は、そこでへこたれず、元気であった初心をたずねるがよろしいのです。そうすれば、また新しく出かけることができます。

 

現代人の一般的欠陥は、あまりに雑書を読み、雑学になって、愛読書、座右の書、私淑する人などを持たないことです。一様に雑駁・横着になっています。自由だ、民主だということを誤解して、己をもって足れりとして、人に心から学ぼうとしません。これは大成するのに、最も禁物であります。

 

書を読む際は、生きた人生に連想が及ぶことが必要です。それを頭がひらめくという。学問が身についてきた証拠なのです。

 

どんな忙人にでも、寸陰というものはある。ちょっとした時間というものは必ずあるはずです。そのちょっとした時間をつかむのです。これに熟練をすれば、案外時間というものはあるものです。寸陰を惜しんでやっていると、その寸陰が、長い時間と同じ、あるいはそれ以上の値打ちを生じてきます。

 

不老長生とはいたずらに年をとることではなく、いつまでも生きる限り、ぼけないで、人生に興味を持ち、情熱を抱き続けて勉強することです。

 

人生航路において辱めを受けたり、運命に恵まれなかったり、因果に支配されても、すべて天命と受け止めることです。食うもの、衣るもののない貧乏生活であっても、楽しみをその中に見出すことです。

 

人間が浅はかで無力であると、いわゆる宿命になります。人間が本当に磨かれてくると運命になります。すなわち、自分で自分の命を創造することができるようになるのです。

 

たえず熱中する問題を持つこと、すなわち感激の対象を持つことです。人生は退屈することが一番いけない。たえず問題を持つ者が、精神的に勝利を占めます。

 

平生からおよそ善い物、善い人、真理、善い教え、善い書物、何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、できるだけ縁を結んでおくことです。これを勝縁といい、善縁といいます。

 

真の教養とは、人類の有する偉大な著作に親しむことによって得るものです。そこで昔から優れた定評のある良い書物を少しずつ読むことであります。人間としての教養の書、人としての哲学の書、修養の書というものを、注意して毎日たとえ3枚でも5枚でも、そういう書物を必ず読むようにする。いわゆる座右の書を持つということであります。

 

本当の学問というものは、血となって身体中を循環し、人体・人格をつくるものです。したがって、それを怠れば自ら面相・言語も卑しくなってくるものです。それが本当の学問であり、東洋哲学の醍醐味もまた、そういうところにあるわけです。


良師を得て、良書を読み、ひたすら学ぶことを勧めています。日々に実践しようと思います。

岡本天明は、明治30年12月4日生まれです。


年 丁酉辛  劫財 正財  死
月 辛亥壬  正財 偏官   絶 
日 丙申庚      偏財   病 

日柱の空亡: 辰巳 日干と月干は干合です。


特別な命式ではなく、神示は、この方の創作ではないと思います。


「天人の文字は数字ばかりであった」(エマニエル・スウェーデンボルグ―霊界日記)


「天人同志の文字は数字が多いぞ。天人の言葉はマコトであるから、只一言で万語を伝えるぞ」(岡本天明―日月神示星座之巻第19貼)


同じことが書いてあります。

日月神示が、岡本天明に降りたのは、昭和19年(1944年)4月18日の出来事です。


この日の命式です。


1944年4月18日 火曜日


年  甲申庚   食神  偏印   長生
月  戊辰戊   偏官  偏官   墓  
日  壬子癸         劫財   帝旺 


[日柱の空亡]: 寅卯


三合水局の日です。


この時は、「天ひつく」と名乗る神が、憑依したと記録されています。


この年の6月10日に、天之日月神社を訪れたときに、社務所で休んでいた天明の右腕に激痛が走り、自動書記が始まったとされています。


この神は、本物だとすると、以後、74年が経過したことになります。


この間、戦争が終わり、高度経済成長があり、バブルがあり、今の世の中が現出しています。


この国は、この神の思惑どおりに推移したのだろうかという素朴な疑問があります。


「天ひつく」とは、本当は、どの神だったのだろうかという疑問もあります。


この地点から、新しい時代が始まっているとすれば、今は、どのぐらいまで、時代は進んでいるのか、よく考えなくてはなりません。

昭和29年9月10日から10月30日に書かれ、昭和30年6月15日に全訳が、岡本天明の手で完成した日月神示第17章「二日んの〇キ」は、価値の高いテキストで吟味すべきものです。



これほどのテキストを生み出す神霊というのは、すごいものだと思います。


エメラルドタブレットの語り口とよく類似しています。



 


われわれの一切は、生まれつつある。

 


神も、宇宙も、森羅万象のことごとくが生まれつつある。

 


分離して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。

 

一は一のみて一ならず、善は善のみて善ならず、また真は真のみて真となり得ない。

 


神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は。存在しない。

 


愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する全てを真とし、美となさんとする故に偽を生じ、醜を生じるのである。

 


悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命する。

 


悪は悪として悪を思い、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす、共に神の御の中に真実として生きるのである。

 


一の天界に住む天人が、二の天界に上昇したとき、一の天界は極めて低い囚われの水の世界であったことを体感する。

 


更に、一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。

 


地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。

 


悪的感覚と悪的実態は自ずから別であるが、この実状を間隔し、し分け得た上、体得する霊人は極めてすくなく、地上人に至りては、極めて稀であることを知らなくてはならない。

 


一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなしことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。



四柱推命を考える場合にも、有益な文献です。

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